妄想彼女
いつもと変わらない普通の夜。
僕は鉄の黒い階段をゆっくり登って行く。彼女の部屋は2階の左側。自分の部屋に帰るみたいにドアを開けて入って行く。
いつもと変わらない普通の夜。
「お話があるの。聞いてくれる?」
いつもと同じ夜じゃない。彼女のしゃべり方がいつもと何か違う。何年か一緒にいればそのくらいのことは僕にもわかる。
「お話?今日は丁寧な言い方するんだね」
この時、僕には今から彼女が話す内容が全てわかってしまったような気がしていた。ほんの数秒前まで全く想像しなかった話が始まるんだ、これから。
いい話であるはずが無い。
彼女の顔を見てしまうとそれが確信に変わってしまうから、見ることができない。
僕は俯いたまま聞いてみる。聞かなくてもわかるけれど聞かないわけにはいかない。
「話って何?」
「好きな人ができたの」
好きな人?僕は好きな人じゃないんだね。何これ?
夢でも見てるのか?昨日までのことは全部嘘だったんだ。微笑みながら嘘を言い続けていたんだ。
今日急にできた訳じゃないだろ。昨日の言葉も態度も微笑みも全て嘘だったんだね。
悲しみよりも驚きが大きくて意外に冷静な気持ちになっていく。夢ではないとしたらこれは現実でしかありえない。
「誰?」
「同じ会社の人」
「そうなの」
「ごめんね」
僕はただの学生だから未来なんて何も見えないね。
お金もないから何も買ってあげられないし、車もないから行きたい所にも連れて行ってあげられない。
そんなことではないのか。
僕の性格が嫌いなのかも知れない。だらだらした学生生活が不安なのかも知れない。そもそも最初から愛情なんかなかったのかも知れない。
そんな思いが次から次にとめどなく湧いてくる。
「そうか」
これ以外僕の口からは何も出てこない。だからこれから先は沈黙しかない。
ここで言うべきなのは、
僕は君が好きで、今はまだ学生だから結婚もできないけれど、いつか必ず幸せにする。それまであと何年か待っていて欲しい。
そういう言葉が喉元まで来ているけれど、声になって出ていかない。
言わなければずっと後悔するかも知れないと思っているくせに、僕には言えない。
言えなかった。
言ったとしても結果は何も変わらなかったことは、今の歳になったからよくわかる。
40年も過ぎて少しは大人になれたから。
言わなくて良かった。
もし言っていたら、今の幸せはなかったんだから。
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